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不死身の漢!

このサイトは私ことジョンが映画、アニメ、ゲームの批評、解説をするサイトです。

『進撃の巨人 エンド・オブ・ザ・ワールド』と「舞台演技」の問題。実写版『進撃の巨人』考察その④

進撃の巨人

10月26日追記:今回書いた記事に対して劇団に所属する知人から「舞台劇演技を映画の演技に比べて稚拙で大げさなものと決めつけているように見える」と、苦言を頂きました。
自分で考えてみて、確かにそういう風に見える箇所があるし、僕自身が無意識に舞台演技をする人たちを下に見ていたのではないかと考え、記事の一部を修正しました。

今回の記事を読んで不快になった方々にお詫び申し上げます。

申し訳ありません。

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実写版『進撃の巨人』の不自然な演技。

実写版『進撃の巨人』後編、『進撃の巨人 エンド・オブ・ザ・ワールド』が公開されて3週間以上が経とうとしています。
実写版『進撃の巨人』前編の解説は前回数回に分けて書きましたが、この映画の問題点については触れませんでした。

その問題点とは、「不自然な演出、演技」です。

これは多くの人が指摘していることで、比較的高評価なキネマ旬報においてもそれが指摘されていました。
特にライムスター宇多丸さんなどの映画評論家の人たちが酷評している大部分は、あまりにもひどい役者陣のセリフ回しやリアクションの不自然さに対してです。

主人公のエレンを演じる三浦春馬さんと、ハンジ演じる石原さとみさんを筆頭に役者たちの大げさな演技に、この映画を見ていた多くの人が疑問をもったことでしょう。

ではなぜこうなってしまったのでしょうか?

 

その理由を知るには「舞台の演技」と「映画の演技」という二つについて考える必要があります。

 

この問題は『進撃』だけでなく日本映画界が抱える問題でもあるんです。

 

映画『進撃の巨人』と劇団新感線。三浦春馬と樋口真嗣。

本題に入る前にまずこれをご覧ください。

 


映画『ゲキ×シネ「ZIPANG PUNK~五右衛門ロックIII」』本予告 - YouTube

 

これは劇団新感線の2012年公演の作品『ZIPANG PUNK~五右衛門ロックⅢ』。主演は三浦春馬です。

劇団新感線は1980年に大阪芸術学院の生徒だったこぐれ修といのうえひでのりによって旗揚げされた劇団です。
劇作家つかこうへいの作品を立て続けに上演することで人気を得て、その後オリジナル作品へと移行し大ヒット。現在では日本でも有数の規模と人気を誇る劇団となっています。

迫力のあるアクションと殺陣、そこにハードロック、へヴィメタ音楽を組み合わせ、漫画のようなハチャメチャなストーリーを展開するのがウリです。

2004年からは舞台公演を撮影、編集し、映画として公開する「ゲキ×シネ」も行っています。


劇団 新感線「メタルマクベス」 DVD予告編 - YouTube

 

『進撃の巨人』の主演に三浦春馬が選ばれた経緯には、上述した『ZIPANG PUNK』における三浦の演技を見た監督の樋口真嗣が彼を熱烈に推薦したことがあります。
ちなみに樋口監督は『ZIPANG PUNK』の打ち上げに呼ばれていて、そこで三浦春馬と初めて話したそうです。

実は『進撃の巨人』で監督を務めている樋口真嗣はこの劇団新感線と親交があり、2000年代前半から樋口がかつて所属していたモーターライズ(CG制作会社イマージュの事業部の一つ)の仕事として、新感線の劇に舞台スタッフとして何度か参加しています。

以下は劇団新感線の公式HPの公演一覧から抜粋。

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2003年4月公演 『花の紅天狗』 
映像:樋口真嗣 

2003年8月公演 『阿修羅城の瞳 ~BLOOD GETS IN YOUR EYES』  
映像:樋口真嗣

2004年4月、10月『髑髏城の七人』(アカドクロ編とアオドクロ編の2編)
映像:樋口真嗣

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新感線の座付き脚本家である中島かずきとは特に仲が良く、樋口監督の映画『ローレライ』には中島が企画協力として参加しています。
そして樋口監督の2008年の映画『隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS』では中島が脚本を担当するなど、樋口監督と劇団新感線は互いの作品作りに協力し合ってきた関係なのです。

 

以上のことを前提として考えると、今回の『進撃の巨人』における俳優たちの過剰な演技は府に落ちるところがあります。

 

 『進撃の巨人』における過剰な芝居は舞台劇の芝居?

実写版『進撃の巨人』の前編で、巨人がどこに潜んでいるかもわからない場所で三浦春馬演じるエレンが苦悩のあまり大声で叫ぶシーンがあります。いくら悩んでいるとはいえ、こんなところで突然叫ぶだすという不自然なシーンですが、この映画の前、後編とも三浦君が叫ぶシーンがいくつもあります。それどころか、この映画の中でエレンは普通に会話するときも、ひたすら大きな声で話し続けています。
(ちなみにこれらのシーンは脚本上では小声で会話するというふうに書いてあったそうで、これらの演技は現場で樋口監督と俳優とのやり取りでつくられたものだそうです)
エレンだけでなく他のキャラクターも同じように大きな声、大げさなリアクションで話し続けているのです。
石原さとみ演じるハンジに至っては、リアクションが凄すぎてまるで漫画です。異常なほど浮いており、作品を破壊しているとさえ言えます。

さらに負けず劣らず人類最強の男シキシマを演じる長谷川博己も大げさな芝居を繰り広げます。彼はMOZUの時同様にひたすら大げさな「フリ」を繰り返します。


後編の中盤でエレンとシキシマが、ハンジと仲間たちと合流し、会話したのちに乱闘になるシーンは浮きまくりの音楽と相まって地獄のような不自然さです。

 

しかし僕は映画館でこのシーンを見ながら気づきました。

「コレ舞台劇の演技をそのままやってる」

僕は姉が劇団員をしており、よく小劇場の公演に呼ばれて劇を見るのですが、今回の『進撃』は、キャラの掛け合い、会話のテンポ、話し方などが舞台劇における劇団の芝居にそっくりなのです。

では舞台劇の芝居とはどんなものなのでしょう?

 

舞台劇における自然な芝居とは何か。


【演劇】 「カッコーの巣の上を」 劇団むさしの座 - YouTube

上は武蔵村山市の劇団むさしの座が公演した『カッコーの巣の上を』。
勿論ミシェル・フォアマンが監督した1975年の映画『カッコーの巣の上で』の舞台版。

基本的なストーリーは全て映画版と同じで、セリフも含めて細かいところまで映画を忠実に再現しています。

ですが当然何もかもコピーされてるわけではありません。舞台劇として成立させるために直されている部分があります。そこが『進撃』実写版の問題と通じる部分なのです。

 

舞台の芝居 その① 基本的に大声で話す。
当然のことで言うまでもないですが、舞台劇では役者は大きな声で聴きとりやすいようにセリフを言わなくてはなりません。
キャラクターが落ち込んでいたり、隠れて話をしたり、ふと独り言を言ったりする芝居の時は役者は小声で話している芝居をするわけです。
映画においては小声で芝居をしてもマイクが拾ってくれますし、あとでアフレコで付け足すこともできます。
しかし舞台劇には基本マイクはありませんので大声でセリフを言わなければ客席に座っているお客さんには聞こえません。
ですので落ち込んでいるように演技をしながら、大きな声で芝居をしなくてはなりません。

上の動画の1:05:37秒あたりで、主人公マクマーフィーとアメリカ先住民のチーフとの間でセリフがやり取りされる場面があります。

それまで喋らなかったチーフが主人公に対して小声で「ありがとう」と言います。ここで初めて言葉を発する原作の映画でも有名シーンですが、映画を見るとこのシーンは全て小声で話しています。チーフは自分が喋れることを周りに隠しており、周りに悟られないように主人公もチーフも小声でやり取りするのです。

ですが上の動画の舞台版ではこのシーンでチーフは大声で「ありがとう!」と言います。それに対して主人公も大声でチーフに話しかけます。
普通に考えればこんな大声で話していたら周りにバレるはずですが、舞台においては特に違和感はありません。
もしこれを小声で話すとすれば今度はお客さんが何を話しているか分からなくなるので、逆にお客さんはとまどってしまうでしょう。。

(ちなみに『進撃』でもなんだか同じような話がありましたね。そう、前編の中盤にある巨人がいる地区なのに登場人物がなぜか大きな声で話すシーンです。)

それと舞台劇においては抑揚を効かせたリズミカルな話し方が好まれているようにも感じます。これはクローズアップなどが存在しない舞台劇において、お客さんの目と耳を登場人物に注目させ、なおかつ一本調子な喋りで退屈しないようにする意味が大きいのだと思います。

 舞台劇の芝居その2 感情を全身で表現する
舞台劇では(前の席であっても)お客さんからは役者の顔はよく見えません。しかし当然、表情と言うのは人間の感情を表現するうえで非常に重要です。
たとえば「ジッと黙る主人公の顔にかすかに哀しみと悔しさが浮かぶ」なんて芝居をしてもお客さんには見えません。後ろの席の人なんてまったくわかりません。

ですので役者は身振り手振りを駆使して観客に感情を表現しなくてはなりません。
上の動画の39:00辺りで、主人公が給水台を持ち上げようとするシーンがあります。
これは映画でも非常に重要な、ラストに繋がるシーンなのですが、舞台では重いものを持ち上げようとする演技が映画よりも大げさに表現されています。
映画では主人公演じるジャック・ニコルソンの苦しそうな表情を真横から捉えることで給水台の重さと、それを持ち上げる困難さがわかるように演出されています。
舞台では苦しそうな表情が見えないため、役者自身が大きな声と体を使った演技をすることで台の重さを表現しているのです。

  舞台劇の芝居その3 説明台詞を恐れない。
映画版『カッコーの巣の上で』のラストシーン。精神病院で反抗を続けた主人公はとうとうロボトミー手術を施され、感情の無い人形にされてしまいます。それを見たチーフは主人公を安楽死させ、病院を脱走するという有名なラストですが、映画の中で主人公が手術を受けたことを説明するのに、チーフが頭の手術痕を発見し、それによって主人公に何が起きたか悟るという映像だけで説明するシーンになっています。
しかし上記の舞台版では1:49:20秒付近を見てもらうとわかるように、チーフはベットの下にあるカルテを見つけ、それで主人公がロボトミーを受けたことを知ります。そしてそれを台詞によって読み上げるシーンになっているのです。

これは上記したように舞台では当然客席から主人公の頭の傷は見えませんから、こうやって台詞を使ったシーンに変えて、お客さんにもわかるようにしているのです。

 舞台劇の芝居その4 世界観を芝居で表現する
例えば海が舞台の芝居があるとします。しかし舞台劇では当然、背景に海を用意することはできません。
しかし海が実際に目に見えなければ、やはり物語の説得力は落ちます。 なので、ステージ上で役者が「ここが海だ」ということを、お客さんに実感させる必要があるのです。

例えば
「ああ、なんて綺麗な海なのかしら! 青い空、潮の匂い、海鳥たちの声、なんて素晴らしいのかしら!」 

と、役者が言い、さらに海にいるとわかるようなジャスチャーをすれば、海が目に見えなくともお客さんの頭の中には世界観が広がります。ならば舞台役者に求められるのは、お客さんの目に映る実際には狭いステージの上を架空の世界に変えてしまい、「ここが海だ!」と強引に納得させてしまうしまうような、多少オーバーな、そして説明的な演技なのです。

役者と彼らが表現する世界観にお客さんの目を引きつけ、さらにそれを説明的なセリフだと感じさせず魅力的に演じられるかが舞台役者の勝負所だと言えます。

しかし映画では海が舞台の作品の場合、実際に海でロケするなどして世界観が画面に映らなくてはならないので、そこで舞台劇と同じような演技はできません。
映画ではお客さんは海が目に見えていて、「ここが海だ」とすでに納得しているため、「ここが海なのね!」という演技を役者がしてしまえば、「なぜ海だと一目瞭然の場所で、こんなに海にいることを強調するんだろう・・・」と不自然に感じてしまいます。

 

舞台上は俳優が支配する世界。
さっき書いたように映画と違う舞台の最大の特徴は、簡単に言うと「クローズアップがない」「狭いステージで世界を表現する」ということです。
狭いステージの中で、しかも舞台上の役者の顔やシーンの細かい部分が観客からは見えない以上、役者と演出家は役者の仕草、台詞、舞台効果など持てるテクニックを全て使って観客にステージの上で何が起きているかを説明しなくてはならないのです。そのため映画よりは大げさな芝居が舞台の役者には求められます。
逆に言えばお客さんと俳優の間に距離がある限り、多少大げさな芝居でもお客さんは不自然に感じることはないのです。
舞台劇の俳優はお客さんからはよく見えない舞台上で、彼らの目を引き付け、退屈させないように、自分で強弱をつけながら芝居をしていくことが必要なのです。

舞台監督協会の初代会長である水品春樹は『演技入門』(1959年)の中で、

「舞台劇の芝居では稽古の時こそ出演者がすべてを支配していますが、いったん舞台の幕が開いてしまえば俳優の思い通りだ。何と言ったって芝居の中で観客と直接の生の交流が出来るのは俳優だけなのだから」

と書いています。

舞台劇とは極端に言えば俳優が中心の世界であり、彼らの芝居がどれだけ人を引き付けられるかにその劇の成功が掛かっているのです。そこには必ずしも「自然な芝居」とか「リアリティーのある表現」は必要ないのです。

 では舞台ではない「映画の演技」とは何でしょう?

 

「映画の演技」と「舞台劇の演技」は全く違う!

イギリスの名優であるマイケル・ケイン(最近ではノーラン版バットマンのアルフレッド役で有名)は1990年に書いた「映画の演技」の中で映画と舞台の演技の違いについて詳しく書いています。

映画の演技

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「舞台では俳優は声、あるいは言葉をハッキリ、明晰に表現して見せなければならない。舞台では基本的大前提はアクションだ。俳優は観客に色んな姿勢や格好を売らなければならない。
一方、映画ではどんなに小さい声でしゃべってもマイクがいつでも声を拾ってくれる。
また映画ではリアクションこそ力を発揮する。映画では相手のセリフを効いてる時が非常に重要だし、同様にクローズアップの時の目の使い方が重要になってくる。

叫んだり怒鳴ったりする必要はない。大げさに表現する必要など全くない。

                        

                        マイケル・ケイン著
                 『映画の演技 映画を作る時の俳優の役割』より

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映画と舞台の違いを語る際に誰でも語ることですが、映画にはクローズアップという技術があり、役者の顔を間近からカメラで撮ることができます。それを劇場で公開すればお客さんは直径何メートルもの大きさで役者の表情の微妙な変化を確認することができます。

しかしそれは同時にカメラの前で「不自然な動き」をすれば、それはすぐにわかってしまうということでもあるのです。
「不自然な動き」とは即ち、明らかに「演技とわかる演技」です。

もしカメラの前で大げさな芝居をすれば、それは巨大な画面となって観客の前に提示されることになります。

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『もし観客が「あの俳優は演技している」と感じたら、その俳優は失敗。
カメラに「意図した演技」を撮られた瞬間に彼はもう映画の中の人物ではない。
無声映画からトーキーになったころ、俳優は伝統的な舞台から映画の世界に来た人ばかりだったから、当然彼らは舞台での演技術をそのまま応用して演じた。
彼らはただ喋るばかりでなく、客席の最前列まで届くような声で演説ぶった。(中略)

いま、マイクはシャツのえり、ドレスのひだに隠され、俳優の小さなため息すら逃さない。だから不自然に大きな声を出す必要はないむしろ逆に小さな声を出すべきなのだ。

                        

                       マイケル・ケイン著
                『映画の演技 映画を作る時の俳優の役割』より 

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先ほど紹介した水品春樹氏の『演技入門』の中でも、「テレビや映画の演技は絶対にオーバーであってはならない。芝居していると思わせてはならない。人物そのものであることがもっとも好感が持たれるのだ」と書かれています。

では映画における自然な芝居とはどういうものでしょう?

 

 

映画における自然な芝居とは何か?

2012年公開の日本映画『桐島、部活やめるってよ』はその年の日本アカデミー賞の主要部門を独占しました。
言葉や台詞を極力排した演出、脚本の見事な出来もさることながら、普通の高校生達を演じる役者陣の演技も高く評価されました。
この映画のいくつかのシーンを取り上げてみます。

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この映画は全生徒の憧れの的であった桐島という男子がいなくなったことで、様々な生徒の心に生まれる葛藤を描いています。

これは映画中盤、主人公の一人である宏樹が進路希望のプリントに目をやった後、グランドを無言のまま見つめるシーン。

彼は元野球部で優秀な部員であったにも関わらず、情熱を失って部に顔を出さなくなってしまいます。勉強もスポーツも何をやっても完璧なのに、それゆえに今後どうしたらいいのかもわからず、心の中で葛藤しているというキャラクターです。

この映画の素晴らしいところは、この宏樹というキャラクターが自分の悩みを口に出して説明するシーンが一切無いところです。わかりやく悩んでいるという芝居が一切無いため、彼の心の中はお客さんが画面をよく見て想像するしかありません。

上のシーンにおいて、宏樹はまったく言葉を発しません。大げさな動きもしません。
ただ進路希望の紙を見た後、それをポケットにしまって、ジッとグラウンドを見ているだけなのです。
カメラは少しづつ宏樹の方に寄っていき、彼の顔にクローズアップしていきます。
さらにその間、グラウンドの方からは野球部の練習する掛け声がずっと聞こえているのです。
これは非常によくできたシーンです。彼の心情を台詞も音楽も使わずにすべて表現しているのです。

 

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 こちらは序盤のシーン。宏樹の後ろの席にいる吹奏楽部の亜矢は宏樹に密かに恋心を持っています。そんな彼女が宏樹がみつめているグランドを同じように見る・・・というシーン。音が完全に消えて、無音になり、時が止まったように見える美しいカットです。
彼女もまた、全編を通して「宏樹が好き」なんて台詞は一切言いません。ですが彼女の心情は120%伝わってきます。

マイケル・ケインは上述した『映画の演技』の中で映画俳優に対する演技のアドバイスとして「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉を使っています。やりすぎるよりははやらない方が良いという意味です。

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「過ぎたるは及ばざるがごとし。私が若い映画俳優に送ることのできる最高のアドバイスがこれだ。何もしないということは、非常に大きな反応を示すような状況においては逆に大変有効だ。
例えば台本に妻が殺されたと書かれていて、その夫のクローズアップを取る時、夫は全く無表情という演技をすることはよくある。観客はその顔にあなたの感情を映し出すだろう。あなた(俳優)はなにもしなくて良い。観客が「ちきしょう」といってくれる。

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さらに同本の中でマイケル・ケインはリアルな演技についてこうも語っています。

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「昔は、あるシーンで俳優が泣かなければならないとき、観客に彼の悲しみが伝わるように大げさに演じなければならなかった(中略)
現実の生活の中で現実に生きている人々は自分の感情をむしろ他人に見せまいと努力することを、現代の映画俳優は知っている。涙を見せまいと努力することが、感情を表すまいと、耐えて、我慢してその挙句の果てにひとりでにあふれでるものがよりリアルで強力なのだ」

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映画の演技は「過ぎたるは及ばざるがごとし」

今までのことをまとめると

つまり

〇舞台劇ではお客と俳優の間に距離があるためオーバーな芝居をしなければお客さんには伝わらない、が同時に多少大げさな芝居でも不自然に見えない(逆に自然に見える)

〇映画ではクローズアップによって客と俳優の距離は無くなるので大げさな芝居は不自然に見える。が同時に小さい芝居でも十分にお客に伝わる(逆に自然に見える)

ということになるでしょう。

現在、日本映画、アニメなどに氾濫している舞台劇のような大げさな演技、過多な説明台詞、主人公の不自然な語り(演説)などは映画、舞台、漫画、アニメでそれぞれ俳優の演技の仕方、脚本のセリフの書き方、演出などが全く違うということがあまりわかっていないために起きている可能性があります。

まずそのことを頭に入れることが面白い映画を作る前提になるでしょう。

 

樋口真嗣監督は今年の秋から庵野秀明さんが脚本を務める新作『ゴジラ』の撮影に入るそうです。
特撮において日本映画界に多大な貢献をしてきた人物であり、今も日本で期待されている人物だからこそ『進撃』、『ゴジラ』という超大作二本も撮れるだけの信用を獲得したのです。

しかし先輩の押井守が本の中で指摘したように、特撮や映像ばかり気にして俳優の演技や演出がおろそかになっているのなら、そこを乗り越えることが彼の出発点になるでしょう。

 

今回の参考文献

映画の演技

映画の演技

 

 映画の演技についてどう演じるべきかを詳しく書いた映画俳優必見の著。
舞台と映画の演技の違いについて詳しく述べている。

 

演技入門―テレビ演技舞台演技

演技入門―テレビ演技舞台演技

 

 50年も前に執筆された本だが、この時点でテレビなどの映像作品では、舞台劇の芝居そのままではオーバーになると書かれている。

 

勝つために戦え!〈監督篇〉

勝つために戦え!〈監督篇〉

 

 最後に書いた押井守の樋口真嗣評はここに載っている。「映像しかない」「芝居を見てない」「意気地がない」とかなり辛口で樋口さんを語っているが、実は期待の裏返しでもある。

 

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